小野和則作品展『魂魄』
2018.11.3 ~ 11.9 at Gallery Salon de Vamhou
美術家 小野和則氏の作品展 時間採集 『魂魄』が倉敷のGallery Salon de Vamhouにて開催。小野氏はアートの最前線でもあるイタリアで20年間作家活動を行い、現在も変わらず岡山を拠点に作品制作をされている。展覧会の1ヶ月前、小野氏のアトリエを能勢とPhenomenaで訪れ、制作の過程を見学させていただいた。また、イタリアでの体験や作品について貴重なお話を伺った。本展作品のテーマである『魂魄』へ、能勢が文章と松澤宥「Ψ(プサイ)の部屋」の机上を撮影した写真作品を寄せた。
「アヤの一族」であれ !!!! ¶今回の小野和則展に付けられた題名『魂魄』とは、魂と軀が合体した意味を持つ。『魂魄』は「魂魄この世に留まりて」と歌舞伎狂言でも表現されて来たように、再生を孕んだ言葉である。そして、人の『魂魄』は時空を超えて、志を同じくする者によって受け継がれていく。そのさまは「アヤ取り」のように、時空を超えた『魂魄』の糸を、見知らぬ時代の見知らぬ人の指が「アヤ取る」のである。人間の歴史の中でこのような『魂魄』の飛び 火を受け取る系譜があり、それを日本史では「アヤの一族」と呼んだ。そして、「アヤの一族」は往々にして祀らわぬ無告の民にその「糸」は引かれ、草莽(=我々)を産んだ。こうしてみると小野和則は倉敷・中庄の中村家が亨保年間から所蔵していた日本人の生活記録の痕跡をアヤ取ったといえる。作家の手によって、幾度も洗浄し、浄め、祓禊し、歴史の闇の中にかすかに息づく痕跡として表現した作品を前にしたとき、このアヤ取りの糸を引き受ける責務は私たちに課せられてくる。この見えない糸を対象化した作品という意味で、最も純化したコンセプチュアル・アートである。(能勢伊勢雄)
共感を手掛かりに 沖島聖子(Phenomena)
サロン・ド・ヴァンホーでの展覧会の前に、小野さんのお宅に伊勢雄さんとPhenomena メンバーでお邪魔したことがあった。制作中の作品を拝見したり、作品の素材になる古い紙を触らせていただくことができた。300年以上続いた旧家の蔵にあったものということで、届いた紙類が膨大な量あって、すべて洗われて、乾かされ、その工程にかなり時間を割かれたとのことだった。紙は白く柔らかくふわふわしていて墨の色も濃く、筆跡もきれいに残っていた。小野さんが言われたように、生活の中で記録された帳簿や名簿、メモのような手習いの筆を含めて、手漉きの紙に墨を用いて綴っていた少しだけ昔の日本の、本人も無意識かもしれないような美しい側面が残されていて、行き渡っていた文化の高さと、今は筆で日常こんな筆跡を書く人は少なく、あらゆる側面で簡易化が進んでいつのまにか文化を失っていることを知らされる。その後ギャラリーで作品を見た時に作品に込められた紙はきちっと固く、白い紙は墨色に、丁寧に埋葬されたという感じがした。¶今回の作品の中には原爆の生みの親であるオッペンハイマーが表紙になった雑誌LIFEを写した能勢伊勢雄写真作品が同時に込められたものもある。¶小野さんはまた、紙を重ね筆跡を重ね続ければ、文字の画数の総数が被爆犠牲者の数にも達すると言われたし、原爆、東日本大震災時の原発事故に関する作品もあった。¶ご自身の満州からの引き揚げ・作家仲間の内戦や亡命といった死と隣合わせの記憶を忘れないことも併せて、作品は戦禍の事実を記憶にとどめるために、けがれを払うように祈り、その経験の中に埋もれた人自身を清めるようなたたずまいに見える。¶大きな犠牲を考えたときに偶然旧家に残された文化の美しさは何が失われたのか具体的に示すものとして、改めて清められて作品の中にある。美しさを感じるということは、失われていても共感し思い出すことができるのだと思うし、人の魂の存在は、時間や場所を超えて見る側に刺さり残り続けていくと思う。
小野和則展 時間採集 『魂魄』を感じて 木村匡孝(Phenomena)
今回の小野和則展をみれた事は自分にとても意味のある事だと思います。小野さんの作品をみた時、小野さんの貴重な話と共に作品が自分に語りかけてくるよに感じたからです。何かをみた時、聞いた時などに相手を思い、感じる事が自分には本当に大切な事だと改めて思います。小野さんの作品「時間採集」に小野さんが日常的に流れているテレビのニュースを写真に収めた作品があります。その中には日頃、横目で見ていたニュースなど、自分には普段、埋没していくようなものも多くありました。伊勢雄さんはアンチスペクタクルとしての闘いフィールドは日常生活の場だと言われます。小野さんの作品にはアンチスペクタクルの上に成り立ち、小野さん自身の感覚で採集された時間を自身が信じて生きられているよう思いました。今回の展覧会名になっている『魂魄』という言葉には「魂魄この世に留まりて」人の魂魄は時空を超えて、志を同じくする者によって受け継がれていくものと伊勢雄さんの言葉を聞いて思い出されたのはチャーリー・エーハンがスラムに遺したタグ「taki183」です。ベトナム戦争に行く前に自分の名前を壁に遺したものですが、戦争に行き、帰ってこれないかもしれないが自分の魂魄をこの世に残した事は創作の原形みたいにも思えます。小野さんの作品『魂魄』は享保の時代に残された日本人の生活記録という魂魄を受け継ぎ、時空を超えて語りかけられたものを小野さんを通して形作られていました。¶なににも囚われずに生きてこられた小野さんだからこそ出来る作品であったと思います。
作品は語りかけてくる 岡茂毅(Phenomena)
小野和則氏の「魂魄」と名づけられた今回の作品は、旧家の蔵から出てきた享保から昭和に至る約300年分の台帳をはじめ習字など岡山の地で暮らしていた普通の人々の生活の痕跡が書付けられた膨大な量の和紙を基にしている。作品展の前に小野氏の自宅で、大量の和紙を洗った話を伺い、洗った和紙を実際に触らせて頂いた時に「きれいだろう」と何度も言われていたのが印象的だった。かつての日本の職人が作った和紙の丈夫さや美しさ、ふわりとした手触りの心地よさはもちろんそこにびっしりと書かれた普通の人が書いたであろう文字の美しさ。かつての日本人が持っていた文化の高さに驚かされた。¶展示された作品は、その和紙がコラージュされ、時には山のように重ねられ、その大部分が黒く塗り固められ、少しづつ和紙に書かれた文字がのぞいていた。その黒は真っ黒ではなく、様々な事柄や思いが内在しているかのような美しさを感じた。かつてこの岡山の地で暮らした人々の生活や文化の美しい痕跡を作品の中に留めているのだろう。そしてそれは地図のように思えた。たまたま遊会で「地図を読む」というのをテーマにしていたのも影響したのかもしれない。地図は、実はすごい量の情報を持っていて、そこがどんな地形であるかはもちろんどんな鉱物があり、植物があり得るのかそしてそこで暮らす人々が大事にしたであろう場所などを読み解いていくことができるということを遊会で学んだ。現代の地形の背後には自然の変遷はもちろん人々の暮らしや自然との関わりなどの長い年月の間堆積してきたものがあるのだ。作品の中で小野氏が張り重ねた和紙のしわや起伏は、かつて岡山の地で暮らした無名の人々の何世代にも渡る生活の営みが作品の中で形となり一つの地図を生み出しているように感じた。それがたとえほんの小さなしわだとしても、僕らの普通の暮らしや文化の積み重ねが何百年も積み重なり形となっていくということにすごく感銘を受けた。¶そしてもう一つ忘れてはならないのが、小野氏の作品は原子爆弾、原発事故の被害者への、そして未来への祈りでもある。原子爆弾によって奪われた命も今回作品に使用した書付に残された生活や文化を持った普通の人々だったのだ。和紙に書き付けられた痕跡がそのことを生々しく教えてくれる。原子爆弾による被害者数が年々増えていてその数字が作品の下に貼られたキャプションに記されている。伊勢雄さんの撮影したコンセプチュアル・アートの先駆者である松澤宥氏の「ψの部屋」の写真が使われた作品では、机の上に原子爆弾の開発の中心であったオッペンハイマーが表紙のLIFE誌が置かれている。奥には1枚だけ白い作品があり、それは原発事故の被害者のために作られたもので被害者の数は未知数となっている。小野氏に制作途中の作品を見せていただいた時に、全部見せるんじゃなくて少しだけにおわせるんだということを教えていただいた。今回の小野氏の作品は、展示されている作品同士が様々に関連し、観ていく毎に少しづつ色んなことに気づかされるものであったと思う。¶小野氏が作品に留めた思いや祈りは伊勢雄さんがこの展覧会のために書かれた文章にある「アヤ取り」として、時代を超えて作品を観た人に受け継がれていくのだろう。そもそも音楽にしろ、絵画にしろ写真にしろ作品とはそういうものではないだろうかと思う。今年「能勢伊勢雄大全」で山﨑治雄氏の西大寺鉄道の写真記録を見せていただいたときに、写真の中に写っている「かつてここにあった」ものが、その時代を知らない自分にこんなにも感銘を与え、いろいろな思いを呼び起こし考えさせられてしまうことに驚かされた。写真の中から感じ取れる鉄道と人々の生活の距離感、それは僕らの生活の中では完全に失われてしまっている。テクノロジーは発展し続けその中で生活していくのは当然として、何が失われてしまったのか、失ってはいけないものはなんだろうか?小野氏の作品を通してかつてこの岡山の地で暮らした人々の生活や文化の美しい痕跡は何度も呼び起こされ、小野氏の祈りとともに語りかけてくるだろう。「魂魄」には再生の意味があるという。この展覧会に本当にふさわしい言葉であると思う。
魂の還るところ 森美樹(ガラス作家・Phenomena)
小野さんは田引綱や新聞紙で縄を編んだり、顔料には土地々々で取ってきた土を作品に用いる。田引綱は、田植えの時に苗を植える間隔に目印が付いた縄で、その幅は気候や風土、田の質など、その土地々々によってかわり、人々の経験と知恵が凝縮されたものさしだ。新聞は社会の出来事を人々に伝える媒体で、縄は生活に欠かせない道具であり神事にも使われる。そして、日本中を旅しながら土を録ったり写真で記録しながら、人々の日々や営み、生命への賛歌、また広島や長崎の原爆、福島の震災など、哀しみに寄り添った作品を制作されている。¶今回の「時間採取 「魂魄」」の作品は、縁あって知人の江戸時代に書かれた生活記録の帳簿と出会うことから制作が始まったと伺う。和紙の帳簿を丁寧に水ですすぎ、長年の埃を取り払い、それを作品に紡いでゆく。¶戦争や自然災害など無念に亡くなった魂は、川へ弔う。その魂は川を下って海で浄化され、再び山へ還り、山の神となる。山の神は、人々の住む里を守り、子どもが無事に生まれることや豊作を見守っている。小野さんの仕事は魂を弔い、浄化させ、この地上へ還していく、そういう仕事のように感じた。人々が安心して居られる地を小野さんは作品の中に留めている。